目次
はじめに
邪馬台国論争の基礎史料として最もよく知られているのは『魏志倭人伝』ですが、その後に編纂された『後漢書 倭伝』もまた、日本列島と倭国の姿を伝える重要な大陸側の史料です。ただし、後漢書倭伝は後世の魏志倭人伝を参考に書かれたとも言われています。よって邪馬台国などが既に記載されています。
全体的には魏志倭人伝にそっくりですが、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」で重要な倭の奴国の金印(志賀島の金印)の記載があります。また、倭国大乱の時代を後漢の桓帝・霊帝の時代(西暦146〜189年)と記載している点も見逃せません。
本記事では、後漢書倭伝の原文を一文ずつ掲げ、逐語的な意味を押さえた上で、邪馬台国の比定等には立ち入らず、これまでの通り史料を丁寧に読むことを重視します。ただし、魏志倭人伝とほぼ重複している倭人の風習などは省略します。

後漢書倭伝の原文
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倭在韓東南大海中依山島爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王世世傳統其大倭王居邪馬臺國〔案今名邪摩惟音之訛也〕樂 浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東 冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同 土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲兼布出白珠青玉其山丹土氣溫 冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓竹 矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆横幅 結束相連女人被髮屈髻衣如單被貫頭而著之並以丹朱分 身如中國之用粉也 有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩 豆俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大 人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妬 又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族 其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞爲樂灼骨以卜用決吉 凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在途吉利則顧以財 物如疾病遭害以爲持衰不謹便共殺之 建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以 印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見 桓靈間倭國大亂更相攻伐歷年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼 神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳 辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻 自女王國東海度千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒東南行船一年至裸國 黑齒國使驛所傳極於此矣 會稽海外有東夷人分爲二十餘國又有夷 洲及亶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏 誅不敢還遂止此洲世世相承有數萬家人民時至會 稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至亶洲者所在絶遠不可往來 沈瑩臨海水土志曰夷州在臨海東南去郡二千里土地無霜雪草木不死四 面是山谿人皆剃髮穿耳女人不穿耳土地饒沃既生五穀又多魚肉有 犬尾短如麕尾狀此夷舅姑子婦臥息共一大牀略不相避地有銅鐵唯 用鹿格爲矛以戰鬥摩砺青石以作弓矢取生魚肉雜貯大瓦器中以鹽鹵之歷 月所日乃啖食之以爲上肴也 |
倭国の位置と構成
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倭在韓東南大海中依山島爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 |
- 倭在韓東南大海中 = 倭は韓の東南の大海の中にある
- 依山島爲居 = 山や島に依って居住している
- 凡百餘國 = およそ百余国ある
- 自武帝滅朝鮮 = 漢の武帝が朝鮮を滅ぼして以来
- 使驛通於漢者三十許國 = 漢と使者の往来がある国は三十余国
現代語訳
倭国は韓(朝鮮半島)の東南に広がる海の中にあり、山や島に沿って人々が住んでいる。国の数はおよそ百余りあり、漢の武帝が朝鮮を滅ぼして以降、漢と公式な交通を持つ国は三十余国に及ぶ。
倭国の王制と邪馬台国
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國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國〔案今名邪摩惟音之訛也〕 |
- 國皆稱王 = 各国はみな王を称する
- 丗丗傳統 = 世々その王位を継承する
- 其大倭王 = その中の大倭王は
- 居邪馬臺國 = 邪馬台国に住む
現代語訳
倭の諸国はいずれも王を名乗り、その地位は代々受け継がれている。その中で最も有力な「大倭王」は邪馬台国に居住している。
邪馬台国までの距離認識
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樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里 |
- 樂浪郡徼 = 楽浪郡の辺境から
- 去其國萬二千里 = その国まで一万二千里
- 去其西北界拘邪韓國七千餘里 = 西北境の拘邪韓国までは七千余里
現代語訳
楽浪郡の境界から邪馬台国までは約一万二千里あり、その西北の境界にある拘邪韓国までは七千余里である。
倭国の地理的比定(中国側認識)
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其地大較在會稽東冶之東與朱崖擔耳相近故其法俗多同 |
- 其地大較在 = その位置はおおよそ
- 會稽東冶之東 = 会稽郡東冶県の東
- 與朱崖擔耳相近 = 朱崖・儋耳に近い
- 故其法俗多同 = そのため風俗が似ている
現代語訳
倭国の位置は、おおよそ中国の会稽郡東冶県の東方にあたり、朱崖や儋耳と地理的に近いため、法律や風俗にも共通点が多いと認識されている。
産物と自然環境
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土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲兼布出白珠青玉 |
- 土宜禾稻麻紵 = 土地は稲・麻・苧麻に適し
- 蠶桑 = 養蚕と桑を知り
- 知織績爲兼布 = 織物を作り
- 出白珠青玉 = 白珠や青玉を産出する
現代語訳
倭国の土地は稲作や麻・苧麻に適し、養蚕や機織りの技術も持っている。また、白い真珠や青玉といった宝物も産出される。
風俗・身体装飾・服装
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男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差 |
- 男子皆黥面文身 = 男子は皆、顔や体に刺青を施す
- 以其文左右大小 = その文様の位置や大きさによって
- 別尊卑之差 = 身分の高低を区別する
現代語訳
倭国の男子は皆、顔や身体に刺青を施しており、その模様の位置や大きさによって身分の差が示されている。
倭国最南端の国と金印下賜(建武中元二年=西暦57年)
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建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 |
- 建武中元二年 = 後漢・光武帝の建武中元二年(西暦57年)
- 倭奴國 = 倭国の中の「奴国」
- 奉貢 = 貢物を奉じる(朝貢する)
- 朝賀 = 朝廷に出て祝賀・謁見する
- 使人 = 使者
- 自稱 = 自ら称して
- 大夫 = 官人の称号(中国的な外交用呼称)
- 倭國之極南界也 = 倭国の最も南の境界にある国である
- 光武 = 後漢の皇帝・光武帝
- 賜以印綬 = 印章と組紐を下賜した
現代語訳
後漢の建武中元二年(57年)、倭国に属する「奴国」が貢物を携えて朝廷に参内した。その使者は、自らを「大夫」と名乗り、「倭国の最南端に位置する国の代表である」と称した。これに対し、後漢の光武帝は、印章と組紐(印綬)を授けた。(これが志賀島から出土した「漢委奴国王」金印に対応する記述)

倭国王の直接朝貢(安帝永初元年=西暦107年)
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安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見 |
- 安帝 = 後漢の皇帝・安帝
- 永初元年 = 永初元年(西暦107年)
- 倭國王 = 倭国の王
- 帥 = 率いる(引き連れる)
- 升等 = 「升」およびその一行(人名)
- 獻 = 献上する
- 生口 = 生きた人間(奴隷・献上人)
- 百六十人 = 160人
- 願請見 = 謁見を願い出た
現代語訳
後漢・安帝の永初元年(107年)、倭国の王は「帥升」らを使者として派遣し、生口(生きた人間)160人を献上した。そして、皇帝への直接の謁見を願い出た。(注:ここでは奴国王ではなく「倭国王」自身が登場)
卑弥呼の登場
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桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼 |
- 桓靈間 = 桓帝・霊帝の時代に
- 倭國大亂 = 倭国は大乱に陥り
- 更相攻伐歴年 = 互いに攻め合う年が続き
- 無主 = 王が存在しなかった
- 有一女子名曰卑彌呼 = 卑弥呼という女性がいた
現代語訳
後漢の桓帝・霊帝の時代(西暦146〜189年)、倭国は大きな内乱に陥り、長年にわたって王を持たない状態が続いた。その中で、卑弥呼という一人の女性が現れた。
卑弥呼の統治形態
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年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王 |
- 年長不嫁 = 年を重ねても結婚せず
- 事鬼神道 = 鬼神の道に仕え
- 能以妖惑衆 = 霊的な力で人々を服従させ
- 於是共立爲王 = そこで人々は彼女を王に立てた
現代語訳
卑弥呼は年長でありながら結婚せず、鬼神に仕える宗教的存在であった。人々はその霊力によって統率され、彼女を王として推戴した。
まとめ
以上が『後漢書 倭伝』に記された倭国と邪馬台国の基本的記述である。魏志倭人伝と比べると簡潔ながら、倭国の位置認識、王制、風俗、そして卑弥呼の登場までが一貫した視点で記録されていることが分かる。
倭国大乱の時代を西暦で146年〜189年頃と公式文書へ記載している点も見逃せない。
後漢書倭伝は、中国側から見た「倭」という存在を、地理・文化・政治の三点から淡々と記録した史料である。邪馬台国をめぐる議論において重要なのは、まずこうした原文の一語一語を正確に読み取り、後世の解釈や先入観を排して理解することである。
邪馬台国がどこにあったのかという問いに答える前に、 「中国の史官は、倭国をどのように理解していたのか」を知ることがまずは第一である。