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~日本に贈られた二つ目の金印~
魏志倭人伝には卑弥呼が魏から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を授けられたこと、さらに使者である難升米や牛利も正式な印を与えられたことが明記されているにもかかわらず、卑弥呼やその時代の王に関わる金印・銀印は一つも出土しておらず、この点は邪馬台国論争における大きな盲点である。
史料にあるわずかな記述だけで精巧な金印を偽造することは不可能であり、中国が海を越えて来た遠方の王に対して特別に金印を授けていた外交慣行や、親魏大月氏王という類例を考え合わせると、親魏倭王の金印も実在したと考えるのが自然である。
もしその金印が発見されれば、それが出土した場所こそ女王の本拠地を示す決定的証拠となり、日本古代史と邪馬台国研究を根底から動かす歴史的大発見になるだろ。
親魏倭王印の意味
「親魏倭王印」。もしもこの金印が現物として発見されたなら、日本史研究において戦後最大級の事件になるでしょう。そして、その金印が出土した場所こそが、「王がいた場所」、すなわち邪馬台国の最有力候補になる。 私はまず、その前提から話を始めたいと思います。
卑弥呼は本当に「金印」をもらっていたのか
魏志倭人伝には、はっきりとこう書かれています。
卑弥呼は、魏から「親魏倭王」の称号を与えられ、
金印紫綬を授けられた。
これは史料上、極めて明確です。にもかかわらず、現在に至るまで卑弥呼の金印、親魏倭王の金印どちらも一つも出土していません。
一方で考古学界では、「卑弥呼の墓はこれだ」「あれが卑弥呼の墓だ」と、あたかも決着がついたかのように語られることがあります。しかし、冷静に考えてみてください。
- 「卑弥呼の墓と言われている」
- 「卑弥呼の墓と考えられている」
と“言われている”だけで、物的証拠は何も出ていないのです。 証明した研究者を連れてきてください、と言っても誰もいない。
これは非常に危うい状況だと、私は思っています。
金印が一つでも出ていれば話は別だった
もし、親魏倭王の金印、あるいは卑弥呼に随行した使者の銀印、このどれか一つでも出ていれば、私は納得します。しかし、一つも出ていない。
だからこそ、この問題は「盲点」なのです。
実は卑弥呼の使者も「印」をもらっている
あまり知られていませんが、卑弥呼が魏に派遣した使者たちも、実は正式な印を授かっています。史料にはこうあります。
- 難升米 → 銀印
- 牛利 → 銀印
それぞれ官位に応じた「印」を与えられているのです。これは極めて重要なポイントです。
この情報だけで「偽造」できますか?
ここで、あえて問いかけてみましょう。史料に書いてあるのは、せいぜい次の情報だけです。
- 「親魏倭王」
- 「金印」
- 「紫綬」
これだけの情報で、
- 印文の配置
- 字体
- 大きさ
- 重量
- 鈕(つまみ)の形
作れますか?答えは明確です。作れるわけがありません。志賀島出土の「漢倭奴国王」の金印も同じです。史料には「金を与えた」としか書いていない。それを、後世の人間が詳細まで作り込めるはずがないのです。
つまり、「史料を読んで偽造した」という説そのものが、成立しないのです。
中国は“海の向こうの国”を特別扱いしている
ここで、非常に重要な視点があります。
中国は、
- 内陸の異民族 → 銅印・銀印
- 海を越えて来た遠方の国 → 金印
という明確な使い分けをしています。
- 倭の名の国王 → 金印
- 卑弥呼(親魏倭王) → 金印
これは偶然ではありません。中国にとって「海の向こうの王」は、特別な存在だったのです。
親魏大月氏王という“もう一つの金印”
さらに視野を広げると、魏は卑弥呼だけでなく、親魏大月氏王という称号も授けています。これは現在のインド・ガンダーラ地方を治めた王です。三国志には、こうした記述があります。
「親魏大月氏王に任ず」
現物の金印は、まだ出ていません。しかし、卑弥呼と同じ「親魏」の称号を与えられている以上、金印が授けられていた可能性は極めて高い。
遠方の異民族に対して、魏が金印を用いた外交を行っていたことは、すでに史料上から明らかです。
もし親魏倭王の金印が出たなら
もし親魏倭王の金印が出土したなら。
- 日本史最大級の発見
- 邪馬台国論争は一気に収束
- 出土地が「女王のいた場所」
になるでしょう。そして、その場所が九州であれば、「なぜ近畿から九州に渡ったのか」という議論が始まる。
しかし私は、こう考えます。出土地優先主義。出た場所こそが、その王の本拠地なのです。
まだ終わっていない金印の物語
親魏倭王の金印も、親魏大月氏王の金印も、いずれもまだ見つかっていません。しかし、それは「存在しなかった」ことを意味しません。
むしろ、
- 史料はある
- 他地域の類例もある
- 中国の外交方針とも一致する
――見つかっていないだけなのです。
いつか、どこかで、土の中から姿を現す日が来るかもしれません。その時こそ、日本古代史は、もう一段階、深い場所へ進むことになるでしょう。