日本古代史講座:「第5回 なぜ金印は志賀島にあったのか~江戸時代の金印発見時の状態を詳しく解説」

~江戸時代の金印発見時の状態を詳しく解説~

これまで数回にわたって、志賀島で発見された「漢委奴国王」金印をめぐる問題、とくに偽造説について検討してきました。回を重ねるごとに関連する資料や実物データを集めていくと、逆にこの偽造説が、だんだんと成り立ちにくくなっていくことが見えてきます。

今回は、その補足として、これまで十分に触れきれなかった他地域の金印の事例を紹介しながら、なぜ志賀島に金印があったのか、そして江戸時代の発見状況をどう考えるべきかを、改めて整理してみたいと思います。

志賀島の金印と「天王嶺金印」

前回・前々回で詳しく触れましたが、1956年に中国で発見された滇王之印(てんおうのいん)は、志賀島の金印と極めてよく似ています。

  • 金の純度は約95%
  • 印面の一辺は約2.3cm(当時の一寸)
  • 全体の高さや造形もほぼ同じ
  • つまみ(鈕)は蛇形

ここまで一致している例が偶然とは考えにくく、少なくとも同一の製作規格・思想で作られたことは間違いありません。

工良(こうりょう)金印という存在

今回、特に補足しておきたいのが、1981年に中国で発見された工良金印です。これは古墳近くで、地元住民が偶然拾ったものとされており、その点でも、江戸時代に農民が志賀島で金印を発見した状況とよく似ています。

日本では「住民が拾ったもの=怪しい」「だから偽物ではないか」といった声も一部にありますが、中国側の鑑定では本物と断定されています。

この工良金印について重要なのは、

  • 授与された記録が文献に残っていること
  • 授与年が西暦58年であること

志賀島の金印が西暦57年ですから、わずか1年違いです。しかも、工良金印は皇帝本人ではなく、その子に授けられたものとされています。

つまり、

  • 同時代
  • 同規格
  • 同様の授与制度

という点で、志賀島の金印と工良金印は、まさに双子のような存在なのです。唯一の違いは、つまみが志賀島では「蛇」、工良金印では「壁(へき)」である点くらいでしょう。

なお、工良金印の金の純度については、まだ詳細な公表がなされていません。個人的には、他の事例から見て、おそらく95%前後ではないかと推測していますが、これは今後の課題です。

ベトナムで見つかった金印

さらに補足しておきたいのが、1936年にベトナム(当時の仏領インドシナ)で発見された金印の存在です。詳細はまだ十分に解明されていませんが、

  • 楽浪郡系の金印と考えられる
  • 当時、魏(あるいは漢)が周辺民族を懐柔するために授与した可能性

が指摘されています。

ベトナムは当時、漢・魏から見れば辺境でありながら、重要な戦略地域でした。そうした場所から金印が出てくるという事実は、「金印は特別な例外」ではなく、外交制度として一定数存在したことを示しています。

データが示すもの

ここまで見てきたように、

  • 志賀島(日本)
  • 中国内陸部
  • ベトナム

という複数地域から、同時代・同規格の金印が確認されています。これらを総合すると、「志賀島の金印だけが偽物である」と考える方が、むしろ無理があります。

データが集まれば集まるほど、偽造説は防御的にならざるを得ず、説明が苦しくなっていく。だからこそ、感情論ではなく、一つ一つの実物資料を丁寧に積み上げて考えることが重要だと思っています。

まだ未調査の金印や未公表の分析結果も残されています。今後さらに研究が進めば、新たな発見が出てくる可能性も十分にあるでしょう。奴国と金印問題は、決して終わった話ではありません。むしろ、これからが本番だと私は考えています。

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