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~偽造説への反論2~
前回までで、日本以外にも金印文化が広く存在していたこと、そして「漢委奴国王」金印が特別に不自然な存在ではないことをお話ししてきました。
今回はその続きとして、金印が「どのような状況で発見されたのか」という点を、改めて整理しておきたいと思います。
この点をきちんと押さえておかないと、どうしても「偽造ではないか」「後世の作為ではないか」という議論が蒸し返されてしまうからです。
金印は「どこから出たのか」
現在、志賀島には「金印公園」が整備されています。

ただし、正直に言えば、金印が出土した正確な一点は、現在でははっきり分からなくなっています。公園としては「このあたりだろう」という推定地点を整備しているわけですが、発見当時は当然、今のように整地された場所ではありませんでした。
では、当時の記録はどうなっているのか。ここで重要になるのが、中山平治郎先生の調査報告です。
中山平治郎報告が示す「石組み構造」
中山平治郎先生は、九州大学医学部の教授であると同時に、考古学・地質にも非常に明るい人物でした。この中山先生が、金印発見状況について詳細な調査を行い、報告を残しています。

中山平次郎(1871–1956)は、九州大学附属図書館の初代病理学教授を務める傍ら、大正から昭和初期に九州の考古学をリードした人物。独自の研究手法で今山遺跡の発見や九州大学総合研究博物館鴻臚館の所在地推定など、弥生時代や古代博多の歴史において多大な功績を残した。
それによると、金印は
- 三つの石を組み合わせた構造の中に置かれていた
- 石組みの大きさは、およそ40センチ前後
- その上から、さらに大きな石で覆われていた
という状況だったとされています。つまり、これは偶然転がっていたものではありません。また、崩れた墓から出てきたものでもありません。意図的に、慎重に「隠された」状態だったのです。
墓ではない、祭祀でもない
まずはっきり言えるのは、このサイズ、この構造は人間の墓ではないという点です。「副葬品説」や「王の墓説」もありますが、構造的に見て無理があります。人を埋葬するための空間ではありません。
では、神社の御神体として埋めたのか。これもよく聞く説ですが、実は発見場所は志賀海神社とは別の地点です。神社の境内でもなく、祭祀施設とも考えにくい。
さらに、「朝鮮式の奇跡的埋納」などという説もありますが、これは構造を見ればすぐ分かります。壊れた状態ではない。乱雑でもない。むしろ 「石の金庫」 と言ったほうが正確です。
なぜ隠されたのか ― 逃走説という現実的説明
では、なぜこんな形で金印が隠されたのか。私はここで、最も現実的な説明として、南から攻められ、北へ追い詰められた勢力の逃走説を考えています。
当時の状況を考えてみてください。
- 南方からの圧迫
- 勢力争い
- 国家体制の転換期
こうした中で、王族あるいは支配層が、「いったん重要な象徴物を隠し、船で逃れる」という行動を取ったとしても、何ら不自然ではありません。志賀島は、まさにそのための場所です。
- 海に近い
- 船での脱出が可能
- 一時的に隠すには最適

「捨てた」説はあり得ない
一方で、「『漢委奴国王』という刻印が気に入らず、捨てたのではないか」という説もあります。ですが、これは正直に言って、私はまったく賛成できません。
わざわざ漢に使者を送り、金印を授かり、それを持ち帰ってきた。そんな重要な外交的象徴を、感情的に捨てるでしょうか?そんなことをするくらいなら、最初から受け取らないはずです。
偽造説が成り立たない理由
金印偽造説は、発見状況を無視し、石組み構造を無視し、当時の政治状況を無視して成り立っています。
しかし、中山平治郎先生の報告を丁寧に読み、現場の構造を冷静に考えれば、これは「作られた物語」ではなく、逃走と隠蔽という、生々しい歴史の痕跡だと分かります。

結論として
整理します。
- 金印は墓ではない
- 祭祀施設とも考えにくい
- 偽造や偶然の埋没では説明できない
- 意図的に、丁寧に隠されている
そうなると残るのは一つ。追い詰められた王族、あるいは支配層が、再起を期して隠したこの「隠匿説」です。私は、この説明が最も合理的で、かつ歴史の現実に即していると考えています。補足としては、以上です。