神武天皇講座:「神武天皇伝承への挑戦 第一回 日向から宇佐へ Part 2/3」

「神武天皇伝承への挑戦 第一回 日向から宇佐へ Part 2/3」

本講座では、神武天皇東征の前段階としての日向から宇佐へ至る動きを、兄弟たちの運命、各地に残る神社伝承、地形条件、そして海人勢力(安曇族)の存在を手がかりに整理した。

兄たちの脱落が示す東征の過酷さ、日向南部から美々津へと続く出発ルート、船団編成と航海の開始、佐賀関を中心とする安曇族の支援体制、さらに内陸拠点としての碇山の戦略的意味を通して見えてくるのは、神武天皇の移動が単なる神話的行進ではなく、現実的な軍事・同盟・交通戦略に基づく段階的な勢力移動であったという点である。

すなわち「日向から宇佐へ」は東征そのものではなく、後の畿内進出を可能にするための基盤形成の過程であり、九州東岸世界における政治的・海上ネットワークの再編を示す重要な局面であった。

前回のガイダンスに続いて、今回は神武天皇の東征に同行した兄弟たち、そして日向から宇佐へと至る具体的なルートについて、史料と各地の伝承をもとに整理していきたいと思います。
日本書紀と古事記では表現や名前に若干の違いはありますが、全体として描いている歴史の骨格は共通しています。

神武天皇と兄弟たち

まず、神武天皇の兄弟構成について確認しておきます。
日本書紀では神武天皇は四兄弟の末弟として描かれています。

  • 五瀬命(いつせのみこと)
     長兄にあたる人物で、和歌山県の日ノ御埼周辺まで進軍した後、戦いの中で命を落としたとされています。
  • 稲氷命(いなひのみこと)
     二番目の兄で、熊野灘付近で暴風に遭い、海に没した可能性が高いと考えられます。海難事故として理解するのが自然でしょう。
  • 三男の兄(道臣命系と考えられる存在)
     史料ではやや記述が曖昧ですが、戦乱や航海の過程で行方が分からなくなった、あるいは途中で離脱したと見る説があります。
  • 神武天皇(若御毛沼命)
     末弟として最後まで東征を主導し、最終的に大和に入った人物です。

兄たちが次々と脱落していく構図は、東征が単なる神話的行進ではなく、極めて過酷な現実の移動と戦いであったことを示しているように思われます。

日向における出発地の伝承

神武天皇の出生地・拠点とされる場所は、現在の宮崎県内に点在しています。

狭野神社(宮崎県高原町)の位置(@GoogleMaps)
  • 狭野神社(宮崎県高原町)
     神武天皇が生まれ育った地とされる伝承が残っています。
  • 宮崎神宮(旧・神武天皇宮)
     後世に大規模整備された神社ですが、古くから「宮」の伝承があり、神武天皇の活動拠点と考えられてきました。
  • 国見ヶ丘・朝穂神社・吾田神社(日南市)
     出発前に祭祀や軍議を行った場所とされ、神武天皇が海路に出る前の準備段階を示す地点と考えられます。

これらを総合すると、神武天皇は日向南部から北上する形で勢力を移動させていったと見るのが自然です。

都農から美々津へ ― 航海の始点

北上の途中、重要な拠点となるのが都農神社です。
都農神社は日向国一宮であり、神武天皇が正式に「国を動かす存在」として祭祀を行った場所と伝えられています。

その後到達するのが美々津(現在の日向市)です。

  • 立磐神社(たていわじんじゃ)
     ここでは、神武天皇が装束を整え、航海の準備をしたという伝承があります。
  • 御舟出の地
     美々津は神武天皇が初めて本格的な船団を編成し、外洋へ出た場所とされ、「日本海軍発祥の地」とも称されています。

現在でも、美々津では二社の間の海峡を船が通らない風習が残っており、神武東征の記憶が民俗として継承されている点は注目に値します。

佐賀関と安曇族の存在

美々津を出航した一行が向かったと考えられるのが、現在の佐賀関(大分県)周辺です。

佐賀関(大分県)周辺(@GoogleMaps)

この地域には椎根津彦(しひねつひこ)を祀る神社や、安曇族に関係する伝承が集中しています。

椎根津彦は後に「道案内役」として神武天皇に仕え、大和入りの際には国造として任命されます。
この人物が安曇族系である点は重要で、安曇族が海上交通と軍事の中核を担っていたことを示しています。

また、佐賀関周辺は四国とも極めて近く、瀬戸内海世界との接点としても戦略的な位置にあります。
神武天皇がここを経由した理由は、単なる偶然ではなく、海人勢力の支援を受けるためだった可能性が高いと考えられます。

碇山(大分市内陸部)という謎の拠点

さらに注目したいのが、大分市内陸部にある碇山(いかりやま)です。

碇山(いかりやま)(@GoogleMaps)

現在は内陸の丘陵地帯ですが、古代には海が入り込んでいた可能性が高く、船を留める「碇」の地名が示す通り、港湾的性格を持っていたと考えられます。

ここには神武天皇軍が一時的に拠点を置いたという伝承が残っており、

  • 内陸防御に適した地形
  • 海と陸の結節点
  • 九州東岸勢力の統合拠点

といった条件を備えた場所だった可能性があります。

日向から宇佐へ ― 東征の前段階として

ここまで見てきた日向から宇佐へ至るルートは、単なる移動ではありません。
これは東征そのものではなく、その前段階としての勢力再編と同盟形成の過程だったと私は考えています。

次回のPart 3では、

  • なぜ宇佐が重要なのか
  • そこから四国・畿内へ向かわなかった理由
  • 宇佐と出雲・安曇族の関係

について、さらに踏み込んでお話ししたいと思います。

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