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第2回 志賀島の金印論争と奴国その2~金印偽造説、完全論破!
志賀島出土金印をめぐる鑑定と論争の核心
これまで、後漢書の記述と志賀島で発見された金印の出土経緯について確認してきた。次に問題となるのが、いわゆる「金印偽造説」である。しかしこの問題に入る前に、まず江戸時代から近代にかけて行われてきた金印の鑑定と、その評価の変遷を整理しておく必要がある。

江戸時代、志賀島で発見された金印は、当時の学者によって早くから注目されていた。その代表が上野名主(上野名翁)であり、彼は金印を鑑定し、『金印弁』を著している。注目すべきは、彼が金印の銘文を「漢委奴国王」ではなく、「漢大和国王」と読んだ点である。これは現在では少数説であり、一般には「漢委奴国王」あるいは「漢委那国王」と読むのが通説である。発音や字体の問題を踏まえても、「委」「倭」「那」の表記揺れは当時としては自然であり、読みの違いそのものは本質的な問題ではない。
重要なのは、読み方ではなく鑑定結果そのものである。昭和41年(1966年)、国の正式な計量・分析機関によって、志賀島金印は精密鑑定を受けた。その結果、金印の一辺の長さは約2.3センチであることが確認された。これは後漢時代の「一寸」にほぼ一致する寸法である。注目すべき点は、後漢書には印の具体的寸法は一切記されていないにもかかわらず、実物が当時の制度寸法と正確に一致している点である。もし偽造だとすれば、1寸なのか、1寸5分なのか、あるいはそれ以下なのかを決定する設計資料が存在しなければならないが、そのような情報は江戸時代には存在しなかった。
さらに決定的なのが金の純度である。鑑定の結果、志賀島金印の金の純度は約95%、いわゆる23金相当であることが判明した。これは現代人ですら測定機器なしには判断できない数値であり、まして江戸時代の職人や学者が知り得る情報ではない。金の純度は見た目では判断できず、現代ではX線分析などを用いて初めて正確に分かるものである。
中国雲南省の双子の金印
この純度の問題は、後にさらに重要な意味を持つ。1956年、中国雲南省で後漢期の王印が発見されたが、この印も大きさは約2.3センチ、金の純度もほぼ95%であった。つまり、志賀島金印と中国出土の後漢金印は、寸法・素材・純度が一致する「双子の金印」と呼べる存在なのである。しかも中国の金印が発見されたのは戦後であり、江戸時代にこれを知ることは不可能だった。
偽造説を唱える人々はしばしば「江戸時代の職人なら掘れる」という。しかし、ここには決定的な誤解がある。掘れることと、掘れる設計を知っていることは全く別なのである。設計図も指令書もなく、寸法・純度・字体・印文構成をすべて後漢制度に一致させることは、技術力の問題ではなく情報の問題であり、江戸時代には不可能であった。
字体についても同様である。「彫りが拙い」「江戸風である」といった評価は主観に過ぎない。実際に中国出土の王印と比較すると、志賀島金印の文字はむしろ整っており、後漢期特有の字形の特徴も一致している。「漢」の字の払い方や、「委」の縦画の処理などは、当該時代の金文・篆書に特有のものであり、これも後世の職人が体系的に知り得たとは考えにくい。
また、印鈕(つまみ)の意匠が「蛇」である点も注目される。中国側の王印にも蛇鈕が存在し、志賀島金印だけが特殊というわけではない。なぜ亀ではなく蛇なのか、なぜ銅や銀ではなく金なのか、これらは後漢の冊封制度と深く関わる問題であり、日本側の恣意で選べるものではない。

さらに近年、中国で発見された別の金印(1981年出土)について、中国側は「漢委奴国王印」と志賀島金印の真正性を前提に整合的な評価を行っている。東アジア全体で見れば、志賀島金印は本物とするのが常識であり、日本国内だけに偽造説が残っているという状況なのである。
疑惑の繰り返し

では、なぜ日本では偽造説が繰り返されるのか。その動機は必ずしも学術的とは限らない。九州という地域への無意識の偏見、近畿中心史観、あるいは話題性や商業的動機など、複合的な背景がある可能性は否定できない。だが少なくとも、寸法・純度・材質・字体・出土状況・比較資料という客観的要素を積み上げていくと、「偽造である」と主張する側の方が、はるかに説明責任が重いことは明らかである。
志賀島金印は、単なる遺物ではない。日本が初めて歴史の中で「国家」として記録された象徴であり、邪馬台国問題や古代日本の成立史とも深く結びついている。だからこそ、この金印をめぐる議論は、感情や先入観ではなく、冷静な資料批判と科学的鑑定に基づいて行われるべきなのである。