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神武天皇伝承への挑戦 ガイダンス Part 3/3
ガイダンスの最終回となるPart 3/3では、神武天皇伝承をめぐる議論を、私なりにもう一段深いところへ運びたいと思います。結論から言えば、神武天皇の物語は、単に日本側の古事記・日本書紀だけで組み立てるのではなく、第三者の証言、すなわち中国側史料の視点を加えることで、ぐっと輪郭がはっきりしてくる。そして、それを年代面で支えるのが安本美典先生の統計的年代論だ、という話になります。
この最終回では、まず中国側の「統一見解」と呼べる史料から見えてくる日本のルーツ観を確認し、その上で、戦前に行われた神武天皇聖蹟調査の意味を整理し、今後この講座でどこを掘っていくのか、私の方針をはっきりさせます。
一千年前に書かれた中国の結論
私は、神武天皇伝承を語るとき、必ず一度は「中国側の見取り図」を確認すべきだと考えています。なぜなら、中国の史書は、少なくとも日本国内の政治的な都合から一歩距離を置いた、第三者の記録として読めるからです。
中国で編まれた史書の中に、日本の起源についてかなり踏み込んだ書き方をしているものがあります。そこでは、日本のルーツは「奴(な)の国」にあり、遠く大陸側から見て、海の向こうの島々に国々が点在し、それぞれが小さな共同体として成り立っている、という認識が示されます。城郭や厚い防壁を備えた大陸型の国家像ではなく、家々が連なり、草葺きの住居があり、島々を行き来する海の民の社会がある。その描写は、理想化された王都の話というより、むしろ当時の列島像の「生活描写」に近い。
さらに興味深いのは、日本の支配者層や称号についても触れている点です。古い段階の首長層に「みこと」といった尊称が用いられること、そして系譜が神代から連なる形で語られることが、外部の史料にすでに織り込まれている。私はここを軽く扱うべきではないと思っています。
要するに、千年前の段階で、中国側は「奴の国を起点として、九州に拠点があり、そこから東へ政治の中心が移動した」という筋道を、ほぼ前提として書いているように見えるわけです。邪馬台国という語を明示せずとも、列島の政治が九州を起点に展開したという理解が底流にある。これは、当時の大唐帝国の、いわば対日認識の統一見解に近い、と私は捉えています。
安本年代論と接続すると神武の位置が見えてくる
ただし、問題は年代です。古事記・日本書紀の年代をそのまま採用すると、神武天皇の即位は紀元前660年となり、物語が考古学的実年代と噛み合いにくくなる。このずれが、神武伝承を「史実ではない」と断じる短絡の温床にもなってきました。
ここで安本美典先生の統計的年代論が効いてきます。安本理論は、神代から初期天皇の在位年数の不自然さを補正し、実年代のカーブに近づける試みです。

私の理解では、これを採用することで、神武天皇の時代は大づかみに3世紀前後に寄ってくる。そうすると何が起きるか。魏志倭人伝の時代感、朝鮮半島をめぐる同時代資料、そして古墳時代初頭の考古学的推移と、接続の可能性が出てくるのです。

つまり、神武東遷の物語を、単なる「神話の中の遠い昔話」として棚上げするのではなく、弥生末から古墳初頭にかけての列島内政治の再編、九州勢力の東進、王権の形成という大きな流れの中に置き直すことができる。これがこの講座の基本姿勢です。
皇紀2600年事業と神武天皇聖蹟調査の意味
もう一つ、私は戦前の資料を軽視すべきではないと思っています。昭和15年前後、いわゆる皇紀2600年記念事業の一環として、神武天皇に関する各種の事業が行われました。その中に「神武天皇聖蹟調査」という調査事業があります。
ここは誤解されやすいところです。戦前の事業である以上、当時の国家的空気や政治的意図が色濃く絡んでいるのは確かでしょう。しかし、だからといって、調査成果をすべて棄却するのは合理的ではありません。実際、当時の一級の研究者が委員会に参画し、古事記・日本書紀に出てくる地名や経路を、現地踏査や資料調査で確定しようとした。そこには、現場で積み上げた地名比定や地形観察の記録が残っているわけです。
ただし、調査の基本姿勢には特徴があります。地域の伝承やローカルな口碑は数多く存在するのに、当時の調査は、まず古事記・日本書紀の記述に出てくる地名に焦点を絞っている。目的を絞ることで短期間に成果をまとめる意図もあったのでしょうし、時代背景として、国際情勢が緊迫し、悠長に総合調査を続ける空気ではなかった事情もあったと思います。
この講座では、その「絞り込んだ結果として確定された地名群」と、逆に「調査はしたが決めきれなかった地点群」の両方を扱いたい。確定部分だけをなぞるのではなく、決めきれなかった理由そのものを掘る。そこに、神武伝承の読み替えの入口があるからです。
物語と歌が作る歴史観

神武東遷の物語は、文章史料だけでなく、近代以降の歌や儀礼によっても繰り返し補強されてきました。皇紀2600年事業のころには、神武東遷を題材にした作品も作られています。こうした文化表現は、史実を直接証明するものではありませんが、当時の人々が神武伝承をどう理解し、どう国民的物語として提示しようとしたか、その「歴史観の作り方」を知る資料になります。
私は、ここを切り捨てずに読みたい。史実か否かの二択に落とすのではなく、史料がどのように選ばれ、編集され、語られ、そして社会に浸透したのか。それを見れば、現代の議論がなぜ硬直しやすいのか、その理由も見えてくるからです。
今後この講座でやりたいこと
このガイダンスの最終回として、私が今後やりたいことを整理しておきます。
第一に、中国側史料が示す「九州起点」の列島理解を、具体的に読み解くこと。単なる引用ではなく、地理感覚、島嶼認識、政治構造の描写が何を意味するのかを検討します。
第二に、安本年代論を下敷きに、神武東遷を3世紀前後の政治再編として読み替える可能性を検証すること。年代が動けば、見える史料の意味が変わります。ここを丁寧にやります。
第三に、神武天皇聖蹟調査の成果を、現代の視点で再点検すること。確定された地名と、確定できなかった地名、その両方を扱い、地形と交通路の観点から「物語が成立しやすい地理条件」を洗い出します。
おわりに
本来であれば、アクロス等の会場で、皆さんの表情を見ながら議論を進めるのが一番です。しかし、状況が状況ですので、今回は録画という形でガイダンスをまとめました。実際にやってみると、早口になったり、間が取りづらかったり、反省点も多い。次回以降は、もう少し落ち着いて、余裕を持って話せるようにしたいと思っています。
神武天皇の話をすること自体が、今でも妙に構えて受け取られる空気があります。しかし、私は、神武伝承は「語ることすら禁物」な題材ではなく、史料と方法を整えれば、むしろ古代史の核心へ切り込む入口になり得ると考えています。
ということで、ガイダンスはここまでです。次回からは総論ではなく、具体の資料と地点に入っていきましょう。皆さんとまたどこかで直接お会いできる日を願いながら、講座を続けてまいります。