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レビュー
河村哲夫の邪馬台国理論を考える上での参考文献。日本史に埋もれた神功皇后の足跡から九州邪馬台国の痕跡を探ろうという大胆なアプローチ。自身の史観を語る前にまず騙されたと思って読んでみよう。一般の邪馬台国論とは違う深みを得ることができるはずだ。Amazonで絶賛発売中(Kindle版+製本版(準備中))。
卑弥呼 天照大神 神功皇后をめぐる古代史の構図
日本古代史を考えるうえで、女性の統治者あるいは象徴的存在として語られてきた人物が三人いる。邪馬台国の女王とされる 卑弥呼、日本神話の中心に位置する 天照大神、そして歴史と神話のはざまに立つ 神功皇后 である。これら三者はしばしば同列に語られ、時に同一視されることさえあるが、その位置づけは本来きわめて異なる。
『古事記』『日本書紀』が伝える皇統譜によれば、天照大神から神武天皇へと連なる系譜の中に、神功皇后は明確に組み込まれている。これは神功皇后が神話時代の存在ではなく、一定の歴史的時間の中で理解されるべき人物であることを示している。それにもかかわらず、近代以降の歴史学では、神功皇后は神話的存在として処理され、実在性を検討する対象から外されてきた。その背景には、史料の扱い方や時代ごとの思想的風潮が大きく影響している。
年代論と神功皇后 卑弥呼同一視の問題
『日本書紀』の神功皇后紀には、『魏志倭人伝』の記事が意図的に挿入されている。このことから、書紀編者が神功皇后を卑弥呼に比定していたのではないかという説が生まれた。実際、西暦換算によると、両者の活動時期は部分的に重なって見える。
しかし、史料を冷静に読めば、卑弥呼は夫を持たなかったとされるのに対し、神功皇后には仲哀天皇という配偶者が存在する。これは決定的な違いであり、両者を同一人物とすることは論理的に困難である。むしろ重要なのは、日本書紀に見られる年代設定そのものの問題である。
百済や新羅に関する記事を朝鮮側史料と比較すると、日本書紀では出来事が体系的に約百二十年繰り上げられていることが確認できる。この補正を神功皇后にも適用すると、彼女の活動時期は四世紀末から五世紀初頭に位置づけられる。この時代は、朝鮮半島で高句麗 百済 新羅が激しく対峙し、日本列島との軍事的 文化的交流が急速に深まった時期と一致する。神功皇后の対外行動をこの文脈で捉えると、史料全体の整合性はむしろ高まる。
戦後史学と神功皇后非実在説の形成
戦後日本の歴史学では、神功皇后非実在説が事実上の通説となった。その背景には、戦前における皇国史観への強い反省がある。神功皇后の三韓征伐は、国家主義的な文脈で利用され、国民を鼓舞する物語として語られてきた。その反動として、戦後は記紀そのものが政治的虚構とみなされ、慎重というより忌避の対象となった。
この流れの中心に位置したのが津田左右吉の史観である。記紀を後世の政治的創作とする立場は、その後の学界に大きな影響を与え、神功皇后を研究対象とすること自体が学問的に危うい行為であるかのような空気が形成された。しかし、否定を前提として史料を読み替え続ける姿勢は、結果として新たな観念論を生み出し、具体的事実の検討を妨げている側面も否定できない。
考古学的証拠と北部九州に残る伝承
一方、北部九州には神功皇后に関する伝承 地名 神社 祭祀が極めて高密度に残されている。これらは偶然に散在しているのではなく、一定の行動経路を想定しなければ説明できない連続性を持っている。
その象徴的事例が那珂川流域に残る裂田溝である。『日本書紀』には、神功皇后が神田に水を引くために溝を掘り、大岩に阻まれた末にこれを突破したという記事が記されている。近年の発掘調査では、この裂田溝の底部から未風化の花崗岩の岩盤が確認されており、文献記述と考古学的事実が一致する極めて稀な例となっている。
さらに、四世紀末から五世紀にかけての須恵器の出現、馬具や横穴式石室の普及、大陸系装飾品の増加などは、朝鮮半島との密接な交流を物語っている。これらの変化は、単なる文化伝播ではなく、政治的 軍事的関係を背景として理解する必要がある。
地域伝承と氏族系譜が示す歴史の厚み
神功皇后に随行したと伝えられる人物に関する氏族伝承も、重要な手がかりを提供している。伊賀彦 大三輪大友主君 中臣烏賊津連 壱岐真根子 安倍介麿など、具体的な名前と系譜が各地に残されており、それらは世代数や年代論とも一定の整合性を保っている。これらの系譜を単なる後世の創作として切り捨てるには、あまりにも具体性が高い。
また、腰掛石や献納伝承、禁足地の存在も見逃せない。刀や矛 玉 兜 白旗などを神に奉納したという記録や伝承は、単なる神話的装飾ではなく、実際の軍事行動や祭祀行為の記憶が反映されたものと考えるほうが自然である。

統合的視点による古代史の再構築
古代史は、文献のみで完結する学問ではない。考古学 言語学 民俗学 地名研究 人類学など、多様な分野の成果を統合して初めて、立体的な歴史像が浮かび上がる。神功皇后をめぐる問題も、実在か非実在かという単純な二分法では捉えきれない。
北部九州に残された膨大な伝承は、名もなき民衆が千年以上にわたり語り継いできた歴史の記憶である。それらが『古事記』『日本書紀』の記事と高い整合性を示している事実は、軽視されるべきではない。記紀を無批判に受け入れるのでも、全面的に否定するのでもなく、具体的事実を積み重ねて検証する姿勢こそが求められている。
神功皇后の足跡を丹念に追うことは、やがて卑弥呼の時代、さらには邪馬台国の実像へと迫るための重要な手がかりとなるだろう。古代史は観念の学問ではなく、現地に残る痕跡と記憶を統合する学問である。その原点に立ち返ることが、今あらためて求められている。