古代豊後2日間の旅

2020-11-01

ふくおかアジア文化塾主催『日本書紀』編纂1300年記念講座「神武天皇伝承への挑戦」と連動し、歴史作家・河村哲夫氏のガイドにより、その足跡をたどるツアーを開催しました

開催日:令和2年10月28日(水)~10月29日(木)  参加者:20人

行程 1日目:福岡市⇒宇佐八幡宮(宇佐市)⇒昭和の町(豊後高田市)⇒ 早吸姫神社(大分市関)⇒椎根津彦神社(大分市関)⇒道の駅「佐賀関」⇒神崎古墳群(大分市関)⇒泊(別府市)

宇佐八幡宮(うさじんぐう)・宇佐市


宇佐と神武天皇

『日本書紀』によれば、神武天皇は御東征のとき、日向を発たれ、椎根津彦命 の水先案内で豊後水道の難所を通り抜け、宇佐に上陸された。 このとき宇佐国造の祖である菟狭津彦命・菟狭津媛命が天皇一行をお出迎 えになり、一柱騰宮を建て、饗(ご馳走)を奉ったことなどが記されている。 これを記念して昭和 15 年に、顕彰碑 が建てられた。 一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、この一帯は騰隈とよば れている。宇佐上陸の地とされる和気地区には柁鼻神社が、また大尾山 の東側台地には椎根津彦命を祀る椎宮が鎮座している。

社格等

式内社(名神大社 3 社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在 は神社本庁の別表神社。全国約 44,000 社の八幡宮の総本社。石清水八幡宮・ 筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。

祭神

◎一之御殿:八幡大神・・ 誉田別尊(応神天皇) 宗像三女神(多岐津姫命)
◎二之御殿:比売大神・・ 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理 命) 市杵島姫命・多紀理 命)◎三之御殿:神功皇后・・ 別名、息長足姫命

昭和の町・豊後高田市

昭和のテーマパーク。昭和30年代の町並みが再現され、当時の雰囲気が満喫できる。


早吸姫神社(はやすひめじんじゃ)・大分市関

早吸姫の拠点は碩田国の「速見の邑(むら)」 。速見の邑(むら)とは、速見郡(大分県早見郡、別府市、杵築市)のこと で、大分郡の北方に所在している。 早吸姫は、速見の邑を治める女王。『日本書紀』は、「一処(ひとところ)の長(ひとごのかみ)」と形容す る。 豊前の神夏磯姫に形容された「一国の長」とくらべると治める範囲も権力 の 小さな女王であった。
拝殿の屋根はこの地方独特の瓦技法を伝える造りで、浦島太郎郎や三重塔などのユニークな瓦が乗っている。 また、全国でも珍しい「蛸断ち祈願」が有名でもある。

祭神は 「速吸比咩(はやすいのひめ)」で、イザナギノミコトのことといわれてい るがこれは後世の付会であろう。もともと、この海域に勢力を張っていた 「速水族」とでもいうべき海人族の女酋であったが、時代が下り、大和朝廷 による支配が進むにつれて一海人族の女酋たる速吸姫を祭神とすることには ばかりが生じ、大和朝廷の祖神ともいうべきイザナギノミコトと同一神とし たとみられる。

椎根津彦神社 (しいねつひこじんじゃ)・大分市佐賀関神山

佐賀関漁港の狭い路地奥にあり、拝殿はコンクリート製、銅葺三間社流造りの本殿にはあちこちに彫刻が施されている。 また、境内からの景観は素晴らしく、 佐賀関漁港から豊後水道までが一望できる。

『日本書紀』神武天皇即位前記には、日向から大和にむけて東征する途中、「速吸(はやすい)の門」にさしかかったとき、曲浦(わだのうら)で釣りを していた珍彦(うずひこ)という漁人が現れ、神武天皇一行を水先案内した。 この功により、珍彦は神武天皇から「椎根津彦(しいねつひこ)」という名を 賜り、倭国造らの祖先となったという。『古事記』は「槁根津日子(さおねつ ひこ)」と書く。 里人らが小祠を建てて椎根津彦を祀ったのが創祀と伝えられる。神社の周辺 は神山と呼ばれ、社地は椎根津彦の住居跡ともいわれている。もと珍宮と称さ れていたが、明治 6 年県社に列せられ、現社名に改称 された。

行程 2日目: 別府市⇒直入中臣神社(由布市)⇒鶴田籾山八幡社(直入町)⇒宮処野神社(久住町)⇒城原八幡神社(竹田市)⇒志加若宮神社(朝地町市)⇒禰疑疑野神社(武田市)

直入中臣神社 (なおいりなかおみじんじゃ)・由布市庄内町阿蘇野・元大分郡庄内町阿蘇野

拝殿への参道

山々に囲まれた庄内町阿蘇野にひっそりと鎮座する。

直入中臣神社

祭神

                    

◎直入中臣神・・天御中主命・天児屋根命の末裔 ◎武甕槌神(たけみかづち)・・出雲の国譲り ◎経津主神(ふつぬし)・・出雲の国譲り ◎天児屋神(あめのこやね)・・中臣氏の先祖 ◎比売神【天美津玉照比賣神】 [天児屋命の妃] ◎許登能麻遲媛神(ことのまぢひめ) [天児屋命の母] ◎天押雲根神(あめのおしくもね) [天児屋命の子                              

『日本書紀』に、大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)【景行天皇】が土蜘蛛討伐の砌、祈祷されたと伝えられる「直入中臣神(なほりなかとみのかみ)」とされている。

景行天皇が「蹶石野(くゑいしの)」に訪れた時にあった、長さ六尺・広さ三尺・厚さ一尺五寸の「蹶石(ほみし)」と伝えられる石がある。

鶴田籾山八幡社(つるたもみやまはちまんしゃ)・直入郡直入町社家

炭酸泉で有名な大分県竹田市長湯温泉 近くに鎮座し、拝殿までの参道には 数百年の大スギの並木が続く。
シャクナゲの群生や地域の方々が育てられた福寿草の群落もあり、地元に大事に守り継がれているお社。

ご神木の大ケヤキは、樹高25m 根周り11mの県指定天然記念物、推定樹齢800年から1000年 と言われる見事な大木。

本殿向かって右に、『景行天皇西征奉祀之神社』の石碑がある 。

祭神

直入物部神=ニギハヤヒと天津赤星神
ニギハヤヒ (1)ニギハヤヒはニニギノミコトの兄弟 ①神武天皇に先立って近畿に東遷した。物部氏と尾張氏の先祖 。

宮処野神社( みやこのじんじゃ )・直入郡久住町仏原の宮園

参道周辺には推定500年前後の老杉を中心にトチノキ、カヤ、タブノキ、サカキ、モミジなど多くの巨木が生い茂り 清々しい雰囲気に包まれている。

この地の土蜘蛛を征伐した景行天皇の行宮の跡に、景行天皇とヤマトタケル を合祀したのが当社の発祥と伝える。 また社伝によると,この地の膳臣廣雄の娘が容姿端麗で和歌と書をよくした ので、嵯峨天皇の釆女となって仕えた。

嵯峨天皇崩御(842 年)の後、釆女は帰郷して尼となり、日々天皇を追慕した。 兄が哀れんで仁寿三年(853)に景行宮の横に神宮を建てた。これが「嵯峨 宮様」として崇敬を集めていたが、明治四年(1871)に社号を「宮処野神社」 と改めた。

祭神

景行天皇のほか、嵯峨天皇、ヤマトタケル、大己貴尊,菅原神(十七社)、 倉稲魂命、仁徳天皇、大歳神(三社)、天皇大神、イザナギ、速玉男命、猿田 彦命(二柱),天若霊命を合祀(『久住町誌』)

城原(きばる)八幡神社・竹田市米納

祭神

景行天皇、神功皇后、応神天皇(八幡神)、比売大神ほか

『日本書紀』によれば景行天皇が景行天皇 12 年(伝 82 年)に熊襲征討の折 り、碩田国(現在の大分県)に巡行し土蜘蛛を討った際に城原に行宮を置いた とされる。 社伝では、当社は応神天皇 2 年(391 年)に行宮跡(城原八幡社上松原社 地)に祠を設けたことに始まるとされる。

城原神社横には清流が勢いよく流れており、名水の地に相応しいお社である。

志加若宮神社(しかわかみやじんじゃ)・大野郡朝地町市

祭神

志我神(しがのかみ)=ワタツミ三神 底津綿見神・中津綿見神・表津綿見神 志賀島を拠点とする阿曇一族の氏神

阿曇一族の性格

「奴国」の時代(BC2 世紀~AD2 世紀)  阿曇一族はイザナギノミコトの時代にさかのぼる。イザナギノミコトは、筑紫の王=奴国の王=那珂の王である。 阿曇一族は奴国の水軍を担っていた。紀元 170 年~180 年ごろの「倭国大乱」で、奴国が邪馬台国によって盟主の 座を追われたとき、「漢の委の奴の国王」の金印を志賀島に隠匿し、イザナギ ノミコト=奴国王を海に逃したのも阿曇一族とみられる。このとき、阿曇一族は各地に移住したとみられる。安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・ 泉・熱海・飽海などの地名として残されている。 九州から瀬戸内海・近畿・滋賀・渥美半島(古名は飽海郡)・飽海川(あくみ がわ)・熱海・安曇郡(長野県安曇野市)から山形県の飽海郡(あくみぐん)まで分布している。海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、奥穂高岳の「穂高 神社」は安曇氏が祖神を祭った神社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祭っている。内陸にあるにもかかわらず例大祭(御 船神事)は大きな船形の山車が登場する。なお、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この信濃国の安曇郡 (長野県)とされる。 阿曇一族は、沿岸部の佐賀関や内陸部の大野郡にも移住したとみられる。

禰疑疑野神社(ねぎぎのじんじゃ)・竹田市大字今

祭神

・大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけ)【景行天皇】 ・建磐龍命(たけいわたつ)

『日本書紀 卷第七』によると、景行天皇 12 年(82 年)10 月、天皇が九州 征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛に「直入県の禰疑野に住む打猿・八 田・国摩侶」という土蜘蛛の情報を聞いて、征伐するため來田見邑(くたみの むら)【朽網郷】に入り、行宮を設けて群臣(まへつきみたち)と土蜘蛛を討 つための議(はかりごと)を行い、賊を討滅した。 このとき兵たちを労(ねぎ)らったことにより、この地を「禰疑野」(ねぎ の)と名づけたと『豐後國風土記』に記載されている。 それから後の世の人が、この地に祠を建立して景行天皇を祭り、「禰疑野大 明神」と称したのがはじまりという。

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