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「 第1回志賀島の金印論争と奴国その1~偽物説浮上!?志賀島の金印を大解剖 」
古代史ライブラリー第1回 志賀島金印から始まる日本の歴史
皆さん、こんにちは。古代史ライブラリー第1回として、今回は志賀島金印の問題を取り上げます。記念すべき初回にこのテーマを選んだのは、日本の歴史を「歴史として」語り始める起点が、まさにこの金印にあると考えるからです。
縄文時代や弥生時代といった区分はありますが、歴史として確実な年代と文献を伴って日本が登場するのは、西暦57年の出来事が最初です。その象徴が、志賀島から出土した金印なのです。しかし、この金印については、国宝でありながら「偽物ではないか」という疑念が根強く語られてきました。
本稿では、まず文献的根拠と発見の経緯を整理し、その上でこの金印が本物と考えられる理由を冷静に見ていきたいと思います。
『後漢書』に記された日本最初の年代記事
志賀島金印の根拠となる文献は、『後漢書』東夷伝です。ここには「建武中元二年」、すなわち西暦57年に、倭の奴国が朝貢し、光武帝から印綬を賜ったと明確に記されています。日本が年号とともに中国史書に登場する最初の事例であり、これは極めて重要です。
それ以前にも倭人に関する記述はありますが、いずれも年代が特定できません。57年という具体的な年が示されている点で、この記述は日本史の出発点といってよいでしょう。使者たちは自らを「大夫」と称し、中国の官制や身分秩序を理解したうえで外交に臨んでいたことも読み取れます。
倭国がすでに国としての体裁を備え、中国と対等な外交儀礼を行っていたことが、この短い文章から浮かび上がってくるのです。
印綬の記事と「書かれていない情報」
『後漢書』には、印と紐が授与されたことは書かれていますが、その材質が金であるかどうか、印文が何であったか、紐の色が何色であったかといった詳細は一切記されていません。中国の制度では、金印には紫の紐、銀印には青い紐、銅印には黒い紐というように厳格な規定があります。

しかし、その肝心な情報が史書には書かれていないのです。ここで重要なのは、この限られた情報だけをもとに、後世の人間が精巧な金印を「作れるかどうか」という点です。印文の内容、字体、鋳造技術、摩耗の状態まで含めて、果たして江戸時代の人間が想像で再現できたでしょうか。

多くの人が直感的に「それは無理だ」と感じるはずです。にもかかわらず、金印偽造説は根強く語られてきました。その理由を検討する前に、まず発見の事実関係を確認する必要があります。
志賀島における金印発見の経緯

志賀島金印は、天明4年(1784)2月23日、志賀島の農民・甚兵衛によって偶然発見されました。
畑の水路を修復していた際、石組の下から金色に光る物体が見つかったのです。この発見については、甚兵衛本人の報告書が残されており、さらに地元の庄屋たちの連署による裏書きもあります。発見場所、状況、発見者の身元、そして藩への提出経路が公文書として明確に記録されている点は特筆すべきです。
発掘状況が曖昧だとか、由来が不明だといった批判は、この記録の存在によって成り立たなくなります。黒田藩に提出された公式文書が信用できないとすれば、江戸時代の行政文書そのものが信用できないことになってしまいます。志賀島金印は、発見の経緯が日本の考古資料の中でも屈指の透明性をもつ事例なのです。
金印は本物か 次回へ続く・・・
以上のように、志賀島金印には、文献的根拠と考古学的発見経緯という二つの確かな柱があります。
それにもかかわらず、なぜ偽物説が生まれ、繰り返し語られてきたのでしょうか。その背景には、近代以降の歴史観や先入観、あるいは日本古代史そのものへの不信があるようにも思えます。
次回は、この金印が本物であると考えられる理由、そして偽物説がどこでつまずいているのかを、技術的・歴史的観点から具体的に検討していきたいと思います。志賀島金印を正しく理解することは、日本の古代史を正しい位置から見直す第一歩となるはずです